自分はどうしたいのか


宇宙全史 掲示板のフリーの掲示板で 他人に対して 命令的な言説を行った一人の人物 それを擁護するのか 批判するのかわからない人物 それに関して誰も気づかなかったということで 管理者の側からの指摘 注意とでも言えるものがあったという 一連の流れにおいて

私はこれすらもある 意味 甘えだななどと思ってしまった 管理者の側は否定しない 管理している側というのは持っている側 だから何を言ったところで 彼らが勝つ こういう言い方をしようか エネルギーを持っているという言い方になる 

だからこの場合においては 迂闊に書き込んだとされている人の その視点に私は少しだけ触れる それは何かといえば この人がどのような思いで 文章を書いたのか 私には分からないということ

それを 支持した人か 否定した人か それも含めてだ。 ただ 思うのは これらの人々というのは 自分の文章が他人に読まれて 伝わって当然だという 漠然とした思いというよりも 当たり前の気持ちを持っているといった その異常さを私は言う 

そんなことがあるわけがないのに彼らは自分たちは誰かに それこそ外の観測をしている人間に 見つけてもらって理解してもらって 共感してもらって 当然だという その心の思い、思考テンプレートというものを持ったままに 文章を投げつけていた 

世の中はそんなに甘くない 特にこの掲示板業界とあえて言うが その世界は甘いものではない

それが誰にも支持されなかろうが 誰にも読まれなかろうが 自分の中に それだけを表したいという強い 本当の欲求 欲望 思いがあるのなら 誰に 何を どう言われようが自分の文章を書いてそしてできることであるのなら たくさん書き連ねて それが全て無駄に終わろうともやり続けて 

そして自分の座標を変え つつも何かを その中から自ら掴み取るという 努力を行って そして 己を変えていくということを 多分やらなければならないのである

その一連の自分の行為が 仮に 人から 大きく 批判されるものであっても 自らの心の内側に深く 強く 相談してその上で 恥ぬ行動であったと自ら強く 確信できるのなら そのような外の声など無視してどんどんと突き進んでいくだけである 

もちろん その方向がいわゆる間違った方向であり そのことで 大きく 失敗する それもある そういうことを全て含めての 自らの言論の 表現 発射とでも言えるものが我々の全体構造の全てとしてある 少なくとも私はそう捉える

誰かなるものに 聞いている時点で同意を求めている時点で それら 放たれた 自分の言葉というものは最初から 何と言うか 甘いものであった という言い方を私は してしまうのである