自らを確認せよ


何もかもが恩寵であり、失敗するも覚醒しないも、何にもなれないのすらも実は恩寵である。 という事の考えを貴方は行った事があるか。 機能する肉体が出来ていないのに覚醒をさせるとそれは全てが破壊されるというところからの覚醒への未達成という考え方をしたことがあるか。

これらの覚醒マニアだとか、この世界脱出マニアだとかと言える人たちは、その様な思いの発生において世界と自分との強い分離を行っているという事への気づきがない。 まあ気づかないのも恩寵だっていえばそうだ。 そして人類におけるほぼ全ての存在は、集合魂は、何でもかんでもは、きづかないことで3億年やってきてここにいるのだから、自分なるもの以外の領域から入ってくるコトバに関連して貴方は右往左往してはいけないのだ。

そしてわたしには信じられないことだが、自分は覚醒しているだとかそうでないとかに日々やきもきする人がどうやらいるらしい。 覚醒しているというのなら明確な指標、そして自らの内部に反応があるはずだが。 それは守護霊なる領域との任意の自由意思伝達が可能になる、会話ができる様になる、というものがあったはずだ。

それらの片鱗さえないのに( 予兆としてはどうやら本当に頭の中に違った人物の声音が聞こえる様だ) 、何故それら題目に思い悩むのか、わたしは自分が頭が悪いのでその辺の面持ちが分からない。 消えたらどうしよう死んだらどうしようと考える人たちに対して思うのと同じようなそれだ。 消えてしまった時点で自らを構成している情報パケットにアクセスが出来ず、演算機能も零なのだから、認識の発生がなく、感じるだとか思うだとかがそこで寸断されているのに 自分はどうか と考えることのナンセンスさにどうして理解がないのか。

わたしはできるだけこの世とあの世とそれ以外の世などいろいろに関しては、物語と歴史ではない捉え方でそれを見るように心がけている。 全く出来てないが。 それは流れなるものだけで見る。 流れていればその周辺には振動が勝手に発生し、その振動で存在が勝手に生まれて勝手に消えるのだから、それらに自己意識だとかいろいろの物語を張り付けて個別の色彩を持たせるのは結構だが、本質をズバリと見るのなら、それは流れているだけだ。 本当は流れていると認識しないと始まらないからそうしているのだが。

ではその流れている領域を有限としたときに… そう有限なのだ、無限だとそれは恐らく無と共存する概念になる …その区切られた領域が開放型なのか閉塞型なのかで、その流れをどうやって発生維持させるかのパターンが変わるよね、とわたしはこのように考える。

この概念は大事なので( いや、説明するわたしにとって、だが) 、今回はあまり深くはやらない。 もっとも深く、といったところで大したことは全く出来ないが。

あんまり飛ばすと自分で何を書いているのか本当に分からなくなるので一旦やめる。


201975金曜