振動が全て

 

振動が全てなんだから、す べ て なんじゃないかなあ


わたしは宇宙全史の概念をたった五文字でしか理解していない。 それは宇宙全史1の何処か真ん中へんだったかに書いてあった月読之大神のコトバとしての「 振動が全てだと、何故分からないのか」 による。 だから五文字 「 振動が全て」 本当にこれだけであれらの文章を認識している。 掲示板とやらから出る各種文章もだ。

そしてわたしはこの地球世界におけるところのインボーなる動きも、搾取なる動きも、結局の所それらの動きは固定されていない物質世界でも同じようなものがあり、上流から搾取に関わる情報パケット、単位で1000というものがあったとするのなら、それが遠方にまで伝達される流れにおいて各種抵抗にぶつかって情報が劣化して、末端では30だとか20だとかになっている世界におけるその末端が我々の地球世界だという理解にある。

だからその概念を展開すると( 展じて開けると) 情報の発信原点というものを設定し、その周辺というものを理解すれば、非常に浅い段階における世界認識の入り口ではあるがその前に立てるのではないかと決めている。 そう、決めている、だ。 物質が固定されていない世界における、思念で全てが可変する設定下においては、その時その時で決めていくしかないのである。 しかし決めても結局エネルギーが全くないものだから、大きな川の激流の流れの中を浮き沈みする木片の様な動きしか取れないのだが。

だから全てのものは一時(いちどきに) 可能性の片鱗発芽として全て出てきて全て消えているという概念になる。 というよりもその様に決めないと膨大生み出された何かが後ろに残ってしまう。 しかし現実は残っていない。 だから生まれるのと消えるのが同時に起きているという言い方かまたは、生まれているものが情報として移動しているので、発生地点には、それを確認した地点には次の瞬間もういないというそんな概念でもいい。

となると動的存在としての宇宙領域という捉え方になる。 もちろん状態なるものを動いていると認識しなければ都合が悪いのでそうしている。 止まって進化している宇宙もあるだろう。 それを無というのではないかという気もするのだが今は展開しない。

エゴというのは、この全体なる意識から自ら飛び出て消滅を選択した飛沫の様なものと定義することはできる。 世界と自分は強く別という風に、特に別、という風に想起するということは、その時点で全体なる領域からは分離してしまった小さな一粒だという言いかたになる。 しかしそれは自由性を確保していないので、空中に放散されている形をとったのちに、自分なる者が消えたという瞬間も知らず消えることになる。

消えてしまった後に思考は発生しないのだから( 少なくとも人間感覚でいうところの思考だ) 、何の考えもない状態に移動するに過ぎない。 考えていない、認識していないのだから、それは 私は在る の状態がオフになっているという言い方でもいい。 しかしこの 私は在るという状態のオフであっても それでも私は在るのだろうが。 有無の外があるからだ。 恐らくは。

わたしは頭が根本的に悪いので、色々悩む人々の状態が実は分からない。 何もかもみなエネルギーの流れと振動状態の変化という風に一旦転換してしまうと、すくなくともだいぶん変わった世界の見え方になって、悩む、苦悩する、悲しむなどの耽溺状態が時間とカネの無駄だと分かると思うのだがなあ、とこれはいっておく。


2019721日曜